DV加害者の更生と救済 — 取次の場が開く新たな可能性


DV加害者の心の闇と救済について深く考えました。御取次の場での変容の可能性とは?神様の光を届ける道があるのではないでしょうか。
闇の中にも光は届く
DVという問題を前にすると、時に「この人に救いはないのか」と思ってしまうことがあります。
しかし、金光教の教えでは、どんな人の中にも神様の光が宿っていると説きます。
最も深い闇の中にいる魂にこそ、神様の光は届くのです。
DV加害者の多くは、自分自身も深い苦しみを抱えています。彼らの暴力的な行動の奥には、幼少期からの傷つき、見捨てられ不安、自己価値感の喪失など、癒されていない心の傷があるのです。
御取次の場がもたらす変容
御取次の場には、DV加害者の更生に効果的な要素がいくつも含まれています。
安全な場での自己開示
御取次の場は、批判や非難ではなく、受容と理解の場です。多くの加害者は自分の弱さや恐れを認められず、それゆえに暴力で自己防衛しています。取次師との対話の中で、初めて自分の弱さと向き合える場合が少なくありません。
あるDV加害者はこう語りました。「これまで誰にも言えなかった自分の弱さや恐れを、初めて口にすることができました。それまでは、弱みを見せると自分が消えてしまうような恐怖があったのです」
神様を通じた自己と他者への新たな視点
御取次の場で神様の存在を感じることで、加害者は新たな視点を得ることができます。自分自身も、そして傷つけてきた相手も、同じく神様から愛される存在だという気づきは、強い衝撃をもたらします。
罪の意識と贖いの道筋
御取次では、過ちを認め、それを贖う道筋が示されます。真の謝罪と償いの道を歩むことで、加害者は自分の行動に責任を取るという、更生の第一歩を踏み出すことができます。
その3:救済の可能性と希望
御取次の場は、DV加害者にとって真の変容の始まりとなりうる神聖な場です。
ここで起こる気づきは、単なる行動修正ではなく、魂のレベルでの変容をもたらす可能性を秘めています。
「自分は神様に見放された存在だ」と思い込んでいた加害者が、自らも神様に愛される存在だと知ったとき、大きな変化が始まります。
同様に、「相手は自分のもの」という所有物的な見方から、「相手も神様から愛される尊い存在」という認識へと変わるとき、関係性の本質的な変化が生まれるのです。
あるDV加害者は御取次の後、こう語りました。
「今まで自分の中にあった怒りの正体が、実は深い寂しさと見捨てられる恐怖だったことに気づきました。神様の光が自分にも届いていると感じられるようになった今、もう暴力に頼る必要がないのです」
神様の光は、どんな深い闇の中にも届きます。
DV加害者の更生という困難な道のりに、取次の場は特別な光をもたらすことができるのです。
それは地道で長い道のりかもしれませんが、一人の魂が救われることで、その周りの多くの人々も救われていくのです。

御取次の力を信じ、神様の光を届ける手伝いをすることで、私たちは暴力の連鎖を断ち切る一助となれるのかもしれません。